明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業



「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は2015年ドイツのボンで開催された第39回世界遺産委員会において新規登録が認められた世界文化遺産です。

1850年代から1910年にかけて日本の重工業化に貢献した遺産群で、「軍艦島」として知られる長崎市の端島炭鉱をはじめ、九州の鹿児島県から東北の岩手県にかけて点在する23資産が、幕末期の西洋技術の導入や、その後の国家主導で発展させてきた鉄鋼・製鉄、造船、石炭産業の近代工業化の過程を示す資産として顕著な普遍的価値を有していると評価され、新規登録の運びとなりました。

もともと日本政府は「明治日本の産業革命遺産」という名称で推薦していましたが、名称は変更されて登録されました。今回の新規登録で、日本の世界遺産登録数は19件となります。

明治日本の産業革命遺産 構成遺産リスト

萩(山口県)

萩反射炉

緑の木々に囲まれた場所に建つ萩反射炉は、静岡伊豆の国市にある韮山反射炉とともに現存する反射炉のひとつです。反射炉とは、銑鉄(せんてつ)という、鉄鉱石から直接製造した鉄(不純物を多く含む)を溶解して優良な鉄を生産するための炉のこと。萩反射炉は日本の産業技術を今に伝える貴重な遺産なのです。

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大板山たたら製鉄遺跡

山口県萩市紫福地区 山の口ダム北側に、大板山たたら製鉄遺跡はあります。日本の伝統的な製鉄方法であるたたら製鉄の遺跡です。大板山に、たたら製鉄所が建設されたのは、燃料となる炭の原料が周囲に豊富にあったからといわれており、大板山たたら製鉄所では、恵美須ヶ鼻造船所で建造した「丙辰丸」を建造する際に使用された船釘などの原料にした鉄を供給していました。

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恵美須ヶ鼻造船所跡

山口県萩市にある恵美須ヶ鼻(えびすがばな)造船所跡は、幕府の要請や木戸孝允の意見により長州藩が建設した造船所跡です。恵美須ヶ鼻造船所は、ロシアとオランダから得た異なる技術によってつくられた船を一つの造船所で建造した貴重な場所です。また、木造の西洋式帆船を建設した日本における最初期の造船所のひとつで、唯一現存する遺構です。

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松下村塾

松下村塾は、長州藩の兵学者だった吉田松陰が1857(安政4)年から1858(安政5)に主宰した私塾。松下村塾で、松陰の教えを受けた塾生の多くが、幕末やその後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担いました。松下村塾は、日本の近代化の出発点ともいえる重要な場所です。

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萩城下町

山口県の萩城下町は、幕末において日本が産業化に取り組み、産業文化を形成していった地域社会を表す重要な資産として評価されました。萩城下町は資産範囲が、萩城跡、旧上級武家地、旧町人地の3つの区域によって構成されています。

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鹿児島

旧集成館

薩摩藩主である島津斉彬は、アヘン戦争後、欧米列強の脅威に備え、日本を強く豊かな国にするため、反射炉・高炉による製鉄大砲鋳造や製鉄・紡績、ガラス製造など、さまざまな産業を興しました。これを集成館事業といい、この事業の中核を担ったのが集成館でした。

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旧集成館機械工場

旧集成館機械工場は、外観は、煉瓦の代わりに薩摩の溶結凝灰岩が使用されており、別名「ストーンホーム」と呼ばれていました。工場には、オランダの工作機械が輸入され、洋式機械による金属加工、船舶の修理・部品加工が行われました。旧集成館機械工場は、1923年からは島津家所有の歴史資料を展示する尚古集成館(博物館)として生まれ変わり、現在に至っています。

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旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

鹿児島県鹿児島市にある旧鹿児島紡績所技師館(通称:異人館)は、日本初の西洋式紡績工場である旧鹿児島紡績所で技術指導を行っていたイギリス人技師の宿舎として建設されました。1867(年に建てられた技師館は、木造2階建て、四面にベランダがあるコロニアルスタイル。外観は洋風ですが、骨組みは日本式で、内部は完全な日本建築、寸法も「尺」単位になっている和洋折衷の建物となっています。

寺山炭窯跡

鹿児島市北東部に広がる吉野台地の北側、吉野町寺山に、寺山炭窯跡(てらやますみがまあと)は建設されました。寺山には、白炭に適したシイやカシの木が多くあり、その為この地が炭窯建築に選ばれたのです。1858年に建設された炭窯は3基ありましたが、現存しているのは、そのうち1基だけです。炭窯本体は堅牢な石積みで建造されており、当時の姿で現存しています。

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関吉の疏水溝

関吉の疎水溝は、鹿児島市を流れる稲荷川の上流から仙巌園(桜島と錦江湾を借景とする庭園)まで、全長約8kmに渡って掘られ、疎水溝を使って集成館まで水を引き込み、引き込んだ水を利用し、集成館内の工場で使う動力源に変えていました。

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韮山(静岡県)

韮山反射炉

韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)は、アヘン戦争やペリー来航を受け、欧米列強に対抗する海防政策のため、江川英龍(ひでたつ)・英敏父子によって建設されました。佐賀藩の技術協力を得ながら1857年に完成したこの反射炉は、国内で唯一、実際に大砲を製造した反射炉です。

韮山反射炉は、連双式2基(4炉)からなり、それぞれ石製の基礎の上に築かれ、炉体は外側が伊豆特産の伊豆石、内部の耐火煉瓦も伊豆天城山の土を利用した、すべて伊豆産のもので建設されました。

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釜石(岩手県)

橋野高炉跡及び関連遺跡

橋野高炉跡及び関連遺跡は、日本の近代製鉄の発祥の地といわれています。古来、日本では、「たたら製法」による砂鉄を原料とした製鉄法で大砲を製造していましたが、この製法では欧米列強の優れた性能を持つ大砲には太刀打ちできませんでした。

そのため、西洋の大砲に対抗できる近代的な兵器の製造には、良質な鉄を大量生産する高炉法が必要と考えるようになり、高炉建設へと進んでいきます。この高炉ですが、反射炉とは違い、鉄鉱石を溶かして鉄にする溶鉱炉のことをいいます。

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佐賀

三重津海軍所跡

三重津(みえつ)海軍所跡は、佐賀県佐賀市早津江川(はやつえがわ)の西河川敷にあります。佐賀藩は、江戸時代、幕府の命により福岡藩と交代で長崎港の警備にあたっていました。欧米からの脅威に対抗するため藩士を長崎の海軍伝習所へ派遣し、造船技術を学ばせ、洋式海軍の創立や艦隊の整備を進めていきました。

そして、1858年海軍教育や船舶技術の獲得と実践と行う施設として設立したのが三重津海軍所でした。

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長崎

三菱長崎造船所 小菅修船場跡

三菱長崎造船所小菅修船場跡(こすげしゅうせんばあと)は、薩摩藩と日本の近代化に貢献したトーマス・グラバーによって建設された施設です。三菱長崎造船所小菅修船場は、現存する日本最古の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を装備した洋式スリップドックで、船架(船をのせる台)がソロバン状に見えたため、ソロバンドックと呼ばれていました。また、曳揚げ小屋は、現存する日本最古のレンガ造り建築で貴重なものです。

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三菱長崎造船所 第三船渠

明治時代、第一船渠(1879年)、第二船渠(1896年)に続いて建造されたのが、1905年に完成した第三船渠でした。完成したドックは、長さ222.2m、幅27m、深さ12.3mでしたが船舶の大型化に対応するため、その後3回の拡張工事が行われました。現在は、長さ276.6m、幅38.8m、深さは建設当時と同じ12.3mとなっています。

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三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン

ジャイアント・カンチレバークレーンは、日本で初めて建設された電動クレーンで、イギリスのアップルビー社で製造されました。現在、ジャイアント・カンチレバークレーンは、蒸気タービンや大型船舶用の船積み用に使用され、今も現役で稼働しているため、一般には公開されていません。しかし、その姿は、旧グラバー邸付近に設置してある双眼鏡から見ることができます。

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三菱長崎造船所 旧木型場

三菱長崎造船所旧木型場(きゅうきがたば)は、鋳物製造用の溶けた金属を流し込む型を製造するための木型を作る作業場として1898(明治31)年に建設されました。建物は、木骨レンガ造り二階建で、日本では珍しい木造クイーンポストトラスの小屋組み、屋根は切妻造桟瓦葺となっています。現存する明治30年代に建造された木型場としては国内最大規模のものです。

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三菱長崎造船所 占勝閣

三菱長崎造船所 占勝閣(せんしょうかく)は、三菱長崎造船所 第三船渠を見下ろす丘の上にある木造洋館です。占勝閣は、長崎造船所所長 荘田平五郎の邸宅として1903年に建設を開始しました。設計は、曾禰(そね)達蔵で、鹿鳴館の建設に携わったジョナサン・コンドルの弟子です。1904年に完成した占勝閣ですが、所長宅として使用されることはなく、迎賓館として使用されることとなりました。

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高島炭坑

高島炭坑は、日本の近代石炭産業の原点と言われる場所で、その歴史は1695年平戸藩の五平太が石炭を発見したことに始まるとされています。1986年高島炭坑は、石炭から石油へのエネルギー転換により、その長い歴史に終止符を打ちましたが、北渓井坑跡などの炭坑遺跡が現在も残っています。

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端島炭坑(軍艦島)

軍艦島こと端島(はしま)は、長崎県の長崎港から南西約18kmにある無人島です。大正時代以降に、日本初の鉄筋コンクリート製高層住宅が建設され、それからは多くの高層住宅が立ち並ぶようになりました。その外観がまるで海上要塞のようで、当時建造されていた戦艦「土佐」に似ていたために、「軍艦島」と呼ばれるようになったともいわれています。

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旧グラバー住宅

旧グラバー住宅は、長崎県長崎市にある現存する日本最古の木造洋風建築物です。旧グラバー住宅はスコットランドの実業家トーマス・グラバーの住宅で、グラバーは、坂本龍馬をはじめとする志士を陰で支え、石炭・造船・鉄道などの様々な分野でも尽力しました。旧グラバー住宅はイギリス洋式の建築技法と日本の伝統的な建築技術を取り入れた和洋折衷の造りでとても珍しい造りとなっています。居住やビジネスの拠点としてだけでなく、文化交流の場所としても重要な役割を果たしていました。

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三池(福岡県・熊本県)

三池港

三池港は、福岡県大牟田市にあります。1908年に竣工した三池港は、三池炭鉱で採掘された良質な石炭を、大型船で直接積載し、各地に搬出するために築港されました。三池港開港前は、大牟田川河口から小型運搬船などに積み替え、長崎県の口之津港まで海上輸送し、そこで、大型船に積み替えていました。

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三池炭鉱 宮原坑

三池炭鉱(みいけたんこう)の歴史は、一人の農夫が稲荷山(現在の福岡県大牟田市稲荷町近く)で「燃える石」を発見したことに始まります。以来、500年以上石炭採掘の歴史を持ち、明治時代には三井三池炭鉱と呼ばれ、石炭の産地となりました。

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三池炭鉱 万田坑

三池炭鉱宮原坑から、南に約1.5km。熊本県荒尾市(一部大牟田市)にある万田坑は、三池炭鉱(みいけたんこう)を代表する坑口のひとつです。万田坑は、三井が当時日本の炭鉱の模範とすべく、総力を挙げて整備した坑口です。

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三池炭鉱専用鉄道敷跡)

福岡県大牟田市、熊本県荒尾市を通る三池炭鉱専用鉄道敷跡。三池炭鉱宮原(みやのはら)坑と万田(まんだ)坑にとって切り離すことができない重要な資産です。三池炭鉱専用鉄道は、宮原坑と万田坑から出炭された石炭を港や国鉄(現在のJR)へと運ぶ大動脈として建設されました。

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三角西(旧)港

熊本県宇城市にある三角西港(みすみにしこう)は、明治の三大築港のひとつであり、その中でも当時のままの姿で現存する貴重な港です。1887年に完成した三角西港の全長756mの埠頭沿いには、倉庫や洋風、和風の建物が並び、ヨーロッパを思わせる街並みが広がる近代的な港湾都市となりました。

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八幡(福岡県)

官営八幡製鐵所 旧本事務所

官営八幡製鐵所旧本事務所は、1901年官営八幡製鐵所が創業する2年前1899年に竣工した初代本事務所です。初代本事務所は、イギリス式のレンガ積みで、中央にドームを持つ左右対称の赤レンガの建造物で、長官室や技監室、外国人顧問技師室などが置かれていました。

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官営八幡製鐵所 修繕工場

八幡製鐵所修繕工場は、1900(明治33)年、八幡製鐵所で使用する機械の修繕、部材の製作加工、組み立てなどを行う目的で建設されました。ドイツ・グーテホフヌンクスヒュッテ(GHH.)社の設計と鋼材を用いて建設された修繕工場は、八幡製鐵所工場群の中心的施設でした。工場は、建設当初は長さ50m、幅30m、高さ11.5mの鉄骨造りです。

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官営八幡製鐵所 旧鍛冶工場

官営八幡製鐵所は、一から始めたプロジェクトで、そのため製鐵所建設に必要な部品も自分たちで作る必要がありました。製鐵所建設に必要な鉄の部品や工具の製造する目的に建設されたのが官営八幡製鐵所旧鍛冶工場です。

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官営八幡製鐵所 遠賀川水源地ポンプ室

遠賀(おんが)川の河口から約10kmの位置にある官営八幡製鐵所 遠賀(おんが)川水源地ポンプ室は、八幡製鐵所にとって重要な役割を担った施設です。鉄鋼生産には、冷却、洗浄、蒸気源、熱処理などのために多量の水が必要になります。その重要な水を八幡製鉄所へ送水する施設として建設された施設のうちの一つが遠賀川水源地ポンプ室でした。送られた水は、貴重なものとして製鉄所内を何回も循環し、再利用されています。

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