「レプティス・マグナの考古遺跡」はアフリカのリビアの首都トリポリの東方にある世界遺産で、20世紀初頭に古代ローマの巨大遺跡が発見された場所です。
2016年の第40回世界遺産委員会において、「レプティス・マグナの考古遺跡」を含むリビアの全世界遺産が危機遺産リストに加えられました。
「レプティス・マグナの考古遺跡」主要スポット
レプティス・マグナとは
1921年、イタリアの考古学者達が、広大な砂地の中から遺跡を発掘します、これがレプティス・マグナです。約1200年もの間砂の中で眠り続けた遺跡は、保存状態もよく、北アフリカで発見された他の遺跡にも例を見ないほど見事なものでした。
レプティス・マグナは、紀元前9世紀、カルタゴを拠点としたフェニキア人によって築かれた港町です。当時は、レプティスと呼ばれ、カルタゴの衛星都市となり、大都市へと発展しました。その後、カルタゴがローマ帝国と対立し、3度にわたるポエニ戦争で壊滅すると、レプティスは、ローマ帝国の属州となります。そして、再び発展するとローマの植民市となり、カルタゴ内にある同名の都市と区別するため「偉大な」を意味するマグナをつけ「レプティス・マグナ」と呼ばれるようになりました。
アフリカ初のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスを輩出した都市として知られ、その治世に絶頂期を迎えました。古代ローマ人は、公共広場、円形劇場、円形闘技場、浴場、港湾施設などを征服した世界中の広大な領地に、建設しましたが、現在そのほとんどは、年月による風化や異民族の破壊により、往年の姿をほとんど留めていません。
レプティス・マグナで発掘された地域は全体の1/3で、砂の中にはまだ見ぬ古代都市の姿が隠されています。
セウェルス帝の凱旋門
セウェルス帝の凱旋門は、198年レプティス・マグナ出身のローマ皇帝セプティミウス・セウェルス帝が東方パルティアとの戦いに勝利した記念に建立されました。四方に入り口を持つ四面門で、アーチを配したデザインは、北アフリカとオリエントの伝統建築の影響がみられる当時としてはとても斬新なものでした。
トラヤヌス帝の凱旋門
トラヤヌス帝の凱旋門の建設を命じたのは、レプティス・マグナ出身のローマ皇帝セプティミウス・セウェルス帝でした。セウェルス帝は、ローマ帝国の領土を拡げ、貧しい人々の救済や治水事業を推し進め、ローマ市民の尊敬を集めたトラヤヌス帝に敬意を表すため、トラヤヌス帝の凱旋門を建設しました。
アウグストゥス帝の劇場
アウグストゥス帝の劇場は、1世紀初頭にローマ帝国初代皇帝アウグストゥス帝によって建設されたと考えられおり、円形劇場としては、北アフリカで2番目の大きさを誇っています。客席は、階段状となっており、自然の勾配を利用して造られています。
ハドリアヌス帝の浴場
ハドリアヌス帝の浴場は、137年レプティス・マグナに治水事業が整ったのを受けて、ハドリアヌス帝の命により完成した公共浴場です。レプティス・マグナで初めて大理石が用いられた建造物で、浴場のほかに、屋外プール、巨大な冷浴室などが設けられていました。
円形闘技場
都市中心部から、東に約1kmの場所に円形闘技場はあります。海岸の傾斜を利用して造られた闘技場は、162年、マルクス・アウレリウス帝(第16代ローマ皇帝)の時代に建設されました。収容可能人数は、約1万6千人とも言われ、ここでは、奴隷の剣闘士と猛獣との戦い、人間同士の死闘などが繰り広げられていました。
市場
市場は、8世紀につくられたといわれています。中庭には、パビリオンと呼ばれる八角形の建物が2つあり、各辺に2軒、計32軒の店舗が並んでいました。市場では、農作物だけでなく、アフリカの内地から運ばれてきた黄金や象牙、宝石も並んでいました。
バシリカ
セプティミウス・セウェルス帝の命により造られたバシリカは、セウェルス帝のフォルムの北側にあります。バシリカが完成したのは、セウェルス帝没後の216年のことで、セウェルス帝の息子カラカラ帝によって完成されました。
セウェルス帝のフォルム
セウェルス帝のフォルムは、セウェルス帝が3世紀初めに行った都市計画の際に、町の中心として新しく建設した広場です。
フォルムには、エジプトや小アジア半島などから運ばれた大理石や花崗岩が惜しげもなく使用され、町の中心として相応しい壮麗なものとなっています。