レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院



イタリアのミラノにある「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」は1980年に世界文化遺産として認定されました。この、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画としてレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『最後の晩餐』は、イタリアでは2番目に登録されました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』

世界遺産 レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院

「この中に裏切り者がいる」
イエス・キリストの言葉に驚愕し、動揺する使徒たち。『最後の晩餐』は、磔刑前夜の劇的瞬間を描いた傑作です。1494年、レオナルド・ダ・ヴィン チは、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァからドミニコ会サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ修道院の食堂壁画『最後の晩餐』の制作を依頼されました。

当時の壁画は、漆喰を塗った壁に水で溶いた顔料で描くフレスコ画が主流で、漆喰が乾く前に一気に仕上げねばならず、作業の中断や描き直しはできませんでした。

移り気な彼は、気が乗らないと すぐに仕事を中断し、熱中すれば何度で も描き直したので、この画法は、ダ・ヴィンチと相性は良くありませんでした。

そこで彼は、中断 や描き直しができる画法を選んだのです。乾いた壁に、顔料を卵などの溶剤で練った絵の具で描くテンペラ画法です。

しかし、テンペラ は絵の具が壁に染み込まず、やがて湿気 で剥落する運命にあったので、完成直後 から、絵には細かい亀裂が生じてしまいました。

ダ・ヴィンチは、それを一度は塗り直 したものの、ミラノを去り、以後、この 絵に執着することはありませんでした。

剥落は年々激しくなり、20年後にはカ ビで覆われ、50年後には絵の半分が傷ん でいました18世紀の修復家は、油彩で筆 を入れ、原画を描き変え、その後継者は、 使徒の一人の左手指が1本隠れているこ とに気づかず、6本目の指を付け足し、 20世紀前半には、熱した鉄のこてで壁面 に絵の具を押し付ける強引な修復が行わ れ、美術ファンの背筋を凍らせたものでした。

上塗りに次ぐ上塗りで、ダ・ヴィンチ の真筆は覆い隠され、「失われた名画」 が蘇ったのは、1999年のことです。原画の完成から約500年と、長い冬眠の後の復活でした。

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院

1942年、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の改築を命じました。この教会は、当時のミラノ公が15世紀半ばに建設を始めたもので、すでにゴシック様式の建物の大半が完成していました。

しかしルドヴィコは、これを一族の霊廟 にするため、建築家を替え、ルネサンス様式による拡張を図ったのです。 当時のミラノ公国は、ヴェネツイアと肩を並べる列強の1つと して隆盛を極めていました。

厳格なドミニコ会の気風を反映した慎ましい造りの修道院 は、ものたりないものだった。一族の霊廟は、ミラノでもっとも美しく、 資沢な建物でなければならない、と考 えた彼は、ルネサンス建築の先駆者で当世一の建築家ブラマンテに改築を命じ、 レオナルド・ダ・ヴィンチに、『最後の晩餐』 を描かせたのでした。

ブラマンテは聖堂の北側に、修道院の景観 を見渡すルネサンス様式の回廊を造り、 聖堂には、スフォルツァ家の霊廟となる 巨大な円蓋を載く内陣を新たに建設しました。 のちにブラマンテは、ヴァチカンの サン・ピエトロ大聖堂改築の設計を手が け、建築史上に名を残すことになります

 

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