デリーのフマユーン廟

最愛の妻に捧げた霊廟タージ・マハルが建つ100年前にも、インドでは配偶者の死を悲しむ王族の物語が残る霊廟があります。それが、インドの首都デリーの中心部東南端のプラーナ・キラーの南に建つ「デリーのフマユーン廟」です。

「デリーのフマユーン廟」はムガル帝国の第2代皇帝フマユーン霊廟と庭園から構成されるインドの世界遺産です。フマユーン霊廟はその名のとおり、ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの遺体が眠る霊廟。

典型的な庭園霊廟で、庭園も建物も左右対称の「庭園の中の廟」といわれる、インド初のムガール様式の霊廟として、1983年にユネスコ世界遺産に登録されました。

 波乱に満ちた皇帝の生涯

父方がティムール王家、母方がチンギス・ハーンという、ムガール帝国の創設者ザーヒルッディン・バーブルの長男フーマユーン。父バーブルに溺愛された彼は父が47歳という若さで亡くなると、22歳で王位を継ぎ第2代ムガール帝国の王となりました。作られたばかりの国は難問が山積み。詩歌を愛する文人で、武人としては果断に欠けた心優しい彼は、父が築き上げた領土の大部分をたった10年で失ってしまいます。

その後はインド西端のシンド、ペルシア、アフタ二スタンなど各地を流浪する身となりました。33歳の時にシンドで19歳のペルシア人のハミーダを見染めて正妃としました。

15年に及ぶ流浪に終止符を打つ時が来ました。ペルシアの支援を得ることができた彼は、弱体化したスール王朝を攻め落とし、やっとデリー奪回に成功しました。

しかしこの喜びもつかの間。1556年に、建物の屋上から降りる時石段を踏み外し落下したその3日後に帰らぬ人になってしまいました。後を継いだ正妃との嫡子でムガール帝国でたった一人大帝と呼ばれた「アクバル王子」はまだ13歳でした。(この皇子は後に、デリーの南約204kmのところにある世界遺産のアーグラ城塞を築きます。)

「デリーのフマユーン廟」は正妃でなく妃の一人で、信仰の厚いベガ・ベーガムが発起したのがはじまりです。

デリーのフマユーン廟とは

夫の死を深く悲しんだ妃が、1565年に10年の月日を費やして建てた、ムガール帝国第2代皇帝の霊廟です。庭園の中に廟を置いた小さいものですが、洗練された初期ムガール様式の傑作といわれる廟で、100年後に建てられたタージ・マハルなどの建設に多大な影響を与えました。

王妃がペルシアの出身だったため、ペルシア人の設計で作られています。ムガール帝国が最初に建てたペルシア系インド様式の壮麗な霊廟としても有名で、あまりにも美しかったことから「ムガル美術」という新しい芸術が誕生しました。

中央にドームがある左右対称の建物は、入口のアーチを通して見たとき、その安定した姿とイスラム建築の美しさを感じることができます。四面どこから見ても同じ外観をしている、ペルシア様式がこの墓廟の特徴です。

中央にある廟は、赤砂岩をベースに縁取りに白、黒、黄の大理石がはめ込まれています。白大理石造りのドームの頂きは高さ38mあり、高さ21m幅・奥行き共に48mある廟堂と、この下にある高さ7m、一辺が80mの基壇が造られています。基壇の側面には開口部がありアーチ型の列柱の回廊になっています。

【世界遺産】デリーのフマユーン廟

photo credit: via photopin (license)

また、内側のドームの天井模様は壮麗です。

フーマユーンの棺は基壇の中央墓室に、四隅の墓室には妃など一族の棺が安置されています。中央にある王の墓室には偽装の棺があり本物の棺はこの地下にあります。下にあるのがセノタフと呼ばれる石棺です。

広い庭園のモデルとなったのが「旧約聖書」や「コーラン」に描かれているエデンの園です。広い庭園は縦横の川を示す水路でマス目状に区画されています。この4つの正方形にはそれぞれ木々が植えられ、水と緑の楽園が表されています。

デリーのフマユーン廟のまとめ

【世界遺産】デリーのフマユーン廟

戦争に翻弄され、文学や芸術を愛した優しい性格のムガール帝国第2代皇帝フーマユーンは妻と子を深く愛した王だったといわれています。王を愛した正妃が建てたペルシア様式の美しい墓廟は、ムガル美術のはじまりといわれています。

庭には華麗なペルシアの庭園文化が導入され、インドの土着の装飾も取り入れられています。この時代に新しくできた芸術はとても美しく見る価値ありです。

この世界遺産のデータ・地図(場所)

名称デリーのフマユーン廟
インド
登録区分 世界文化遺産
登録年

1993年

キーワード

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