シュタールエック城
(ライン渓谷中流上部)
ライン川の左岸にある、11世紀か12世紀に建てられたお城です。山道を15分かけて登ったところにある、眺望豊かなユースホステルとなっています。古城ホテルよりリーズナブルに泊まれる古城ユースホステルとして人気です。
シュタールエック城のはじまり
1100年ごろに、バッハラハ周辺を領地としていたケルン大司教によって築かれたと考えられているお城です。
ケルンから離れていたため、遠隔地統治の目的を持っていたようで築城当初から規模の大きな城とされていました。
1135年に初代城代として、ゴスヴィン・フォン・シュタールエックが任命されました。彼の息子ヘルマンは、神聖ローマ帝国国王コンラート3世の姉妹を成婚し1142年にライン宮中伯の地位を受けました。
その後継者コンラート・フォン・ ホーエンシュタウフェンは、プファルツ領地を形成しこのお城を与えられました。
オットーとヘルマンの争い
しかしこの時、プファルツ領地の元ライン宮中伯オットー1世は領地を召し上げられてしまった形になり、オットーとヘルマンはプファルツ領地を巡り争うようになりました。
1148年にオットー2世はヘルマンに捕らわれ翌年シェーンブルク城で殺害されました。
1150年にはオットー1世も亡くなり、彼の居城ラインエック城が翌年コンラート3世により落され、両者の領地争いはヘルマン側の勝利で集結しました。
1156年にはヘルマンも死去し、城主が変わるなどの変遷期を迎えています。
名家に所有されたシュタールエック城
1194年に、ハインリッヒ若犬王子がコンラートの相続王女アグネスと密かに成婚し、1195年に宮中伯を継承しています。
1214年にドイツ屈指の名家ヴィッテルスバッハ家のバイエルン大公オットー2世が所有し、550年以上に渡りヴィッテルスバッハ家がこの城を所有していました。
シュタールエック城の終焉
三十年戦争の最中の1620年以降、シュターレック城とバッハラッハの町は、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ帝国、バイエルン、スペイン、 フランスと次々に占領され荒廃してしまいます。
1666年にはプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒが修復工事を行ったが、プファルツ継承戦争の際の1689年には、フランス軍によって塔と城壁を爆破されました。
現在のシュタールエック城
1828年にプロイセンが買い戻し、1909年にライン史跡保護協会が買い取って、1925~1927年にユースホステルに改装されました。1931年に本丸、1965~1967年に天守が改修され、現在はドイツで最も美しいユースホステルとなっています。
まとめ
豪壮な外観を持つとんがり帽子の塔が印象的なユースホステル。黒く聳える主塔はベルクフリートと呼ばれています。
城の麓にあるバッハラッハの街は、小さいながらの中世の趣が残る素敵な街です。ワインの集積地でもあったこの町はワインの販売店や居酒屋が並んでいます。上品な甘さを持つ白ワインをぜひ味わってみてください。
「シュタールエック城」のデータ
国名 | ドイツ |
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世界遺産名 | ライン渓谷中流上部 |
名称 | シュタールエック城 |