血の上の救世主教会
サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群

ロシアの「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」に含まれる血の上の救世主教会は、公式名をハリストス復活大聖堂といいます。「血の上の」と呼ばれるのは、1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)の皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、教会は皇帝遭難の地に建っています。

アレクサンドル2世の暗殺

【世界遺産】血の上の救世主教会 | サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群暗殺されたアレクサンドル2世(1818-81)は、「解放皇帝」と呼ばれ、農奴解放を初めとする「大改革」を行いましたが、次第に反動化。同時にナロードニキ運動が急進化し、一部はテロリズムに走りました。その日、女性革命家ソフィア・ペロフスカヤが指揮する過激派「人民の意志」が、皇帝の車を襲撃。瀕死の重傷を負った皇帝は、担ぎ込まれた冬宮で一時間後に崩御しました。

その後跡をついだアレクサンドル3世(1845-94)によって、皇帝終焉の地に血の上の救世主教会が建設されました。1883年に着工しましたが、アレクサンドル3世在位中には完成せず、ニコライ2世(1868-1918)の治世に入って13年目の1907年に完成しました。

独特の建築様式

血の上の救世主教会の建築様式は、サンクトペテルブルクにおける他の建築とは異なると見なされています。他の主要な建築は、ほぼバロックおよび新古典主義様式ですが、この教会は、ロマンチックなロシア・ナショナリズム、中世のロシア建築の影響を色濃く受けています。玉ねぎ形状の屋根、無数のモザイク画に彩られた壁面などに、モスクワの聖ワシリイ大聖堂(生神女庇護大聖堂)や、17世紀のヤロスラヴリの教会建築に通じるものがあります。
暗殺という悲劇がきっかけで建立された建築物であるため、壁面が『聖書』の中の悲劇的な要素を主題としたモザイク画で装飾されています。その一方、無数のトパーズ、青金石(ラピスラズリの原料)および他の半貴石で飾られ、豪奢な印象も与えます。

ロシア革命は、教会に大打撃を与えました。教会はソビエト政権によって略奪され、1930年代初期に閉鎖されました。第二次世界大戦中は野菜倉庫として使われ、レニングラード包囲戦で損害を受けました。戦後は近くのオペラ劇場のための倉庫として使用されていました。

1970年7月、血の救世主教会の管理権は聖イサアク大聖堂に譲渡されました。その後、聖イサアク大聖堂の収入は血の上の救世主教会の復旧に向けらていきます。27年間の修復期間を経て、1997年8月、血の上の救世主教会は、およそ60年ぶりに一般公開されました。

ギャラリー

「血の上の救世主教会」のデータ

   
国名 ロシア
世界遺産名サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群
名称血の上の救世主教会

 

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