サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂
(ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂)
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂は、イタリアのローマにあり、世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂」のひとつです。ラテラノ宮殿に隣接しています。
これら3つの大聖堂と共に、ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の教会堂)のひとつに数えられます。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の歴史

大聖堂の起源
古代ローマ時代、この地にはラテラヌス家という名家の邸宅がありましたが、後に皇帝によって没収され、コンスタンティヌス帝の妃ファウスタの邸宅となりました。キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、この地をキリスト教徒に寄進し、やがて教皇の居住地となる「ラテラノ宮殿」と呼ばれるようになります。大聖堂はローマ司教(教皇)の司教座を持つ聖堂「カテドラル」として建設されました。
「全カトリック教会の母なる聖堂」
324年、教皇シルウェステル1世によって献堂式が行われ、「世界の母なる聖堂」として称されました。大聖堂は「救世主大聖堂」とも呼ばれ、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂よりも高い格式を誇ります。
10世紀、教皇セルギウス1世はローマ唯一の洗礼堂を新築し、洗礼者ヨハネに奉献しました。さらに12世紀には、教皇ルシウス2世が福音記者ヨハネにも捧げ、2人のヨハネを記念する聖堂として知られるようになります。
苦難の歴史と復興
1309年、教皇庁がフランスのアヴィニョンへ移転(アヴィニョン捕囚)した後、大聖堂と宮殿は2度の火災で荒廃。1377年に教皇庁がローマへ戻っても、宮殿は修復されず、以降教皇はバチカンに居を移しました。
16世紀、教皇シクストゥス5世の命により建築家ドメニコ・フォンターナが宮殿と大聖堂を修復。このとき両施設は切り離されました。17世紀にはフランチェスコ・ボッロミーニが内部を豪華に装飾し、1735年に完成したバロック様式のファサードが現在の外観を形作りました。
ラテラノ条約とバチカン市国の誕生
1929年には、ラテラノ宮殿で教皇ピウス11世とムッソリーニが会談。ラテラノ条約が締結され、バチカン市国が独立国家として成立しました。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の建築

建造当初は古代ローマのバシリカ式建築でしたが、1735年に設置されたバロック様式のファサードによって、その特徴は失われました。しかし、ボッロミーニによる内装は絢爛豪華で、教皇の威厳と歴史の重みを感じさせます。
身廊の両脇には12使徒の像が並び、教皇専用の祭壇が設置されています。また、聖遺物として、聖ペテロと聖パウロの頭蓋骨の一部が保管されており、信仰の対象となっています。
25年に1度開けられる「ポルタ・サンタ(聖なる扉)」

25年ごとに訪れる聖年のときのみ開かれるポルタ・サンタ(聖なる扉)があり、そのときには多くの信者が押し寄せます。
大聖堂前の広場には、エジプトから運ばれてきたオベリスクがあります。ラテラノ宮殿とこのオベリスクと大聖堂、合わせて見学するのがおすすめですね。
「サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂」のデータ
国名 | イタリア |
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世界遺産名 | ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 |
名称 | サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂 |