ピッティ宮殿
(フィレンツェ歴史地区)
イタリアの世界遺産「フィレンツェ歴史地区」に含まれるピッティ宮殿は、トスカーナ大公の宮殿として使用されたルネサンス様式の広大な宮殿です。アルノ川の西岸にあり、ウフィツィ美術館とはヴァザーリの回廊で結ばれています。400年に渡りメディチ家が中心となって収集した絵画や宝飾品のコレクションは膨大な数にのぼり、現在は美術館として一般に公開されています。収蔵作品の主なものには、ラファエロ、ルーベンス、ボッティチェリ、ティツィアーノなどがあります。
ピッティ宮殿の建設
1457年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティはピッティ宮殿の建設を開始。建築家フィリッポ・ブルネレスキによって設計、着工されました。ピッティは後に「祖国の父」と呼ばれるコジモ・ディ・メディチのライバルで、メディチ家よりも優れた建物を作ることを望んでいました。しかし、ピッティは宮殿の完成を見ることなく1427年に死去し、それとともに宮殿の建設も中止されました。
ピッティの死から約100年を経た1550年頃、初代トスカーナ大公であるメディチ家の当主コジモ1世が、体調を崩しがちになった妻エレオノーラ・ディ・トレドのためにピッティ宮殿を買い取ります。これによって宮殿の建設が再開されました。1558年から1570年にかけて、バルトロメオ・アンマナーティがブルネレスキの作風に似せて増築を行います。現在のウフィツィ美術館が完成し、政治の場として機能するようになると、コジモ1世とその家族は私的な時間をピッティ宮殿で過ごすようになりました。
1737年、メディチ家最後のトスカーナ大公であるジャン・ガストーネが後継の男児のないまま死去し、1743年には姉のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチも世を去ります。これによってメディチ家の主流が断絶したため、トスカーナ大公の地位とピッティ宮殿の主はロートリンゲン家のフランチェスコ2世が継承することになりました。
美術品の収集
アンナ・マリアは、メディチ家のコレクションをフィレンツェから持ち出さないことを条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈すると遺言していたため、収集品の散逸は免れました。
ロートリンゲン家が主となった後も美術品の収集と宮殿の増改築は続きました。ピッティ宮殿がほぼ現在の形になったのは19世紀末のことです。1799年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がトスカーナに侵入し、コレクションのいくつかをフランスに持ち出しました。その後いくつかは返還されましたが、すべてが返還されたわけではありません。ウフィツィ美術館の所蔵品がすべてそのまま残されたのとは好対照です。
1814年、ナポレオン1世が失脚すると、トスカーナ大公国とピッティ宮殿は再びロートリンゲン家のものとなりました。しかし、その後、トスカーナがサルデーニャ王国に併合され、ピッティ宮殿の主もサヴォイア家に変りました。1911年、ヴィットリオ・エマヌエーレ3世によって宮殿は文部省に移譲され、美術館管理局の管轄下に入り、アンナ・マリアの遺言をかなえる形で宮殿と収蔵品は一般公開されるようになりました。
「ピッティ宮殿」のデータ
国名 | イタリア |
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世界遺産名 | フィレンツェ歴史地区 |
名称 | ピッティ宮殿 |