ノートルダム大聖堂
(パリのセーヌ河岸)
パリの中心部を流れるセーヌ川の中州であるシテ島南東にそびえるノートルダム大聖堂。フランスの世界遺産「パリのセーヌ河岸」にも含まれているノートルダム大聖堂は、パリの一大人気観光スポットです。
ディズニー映画「ノートルダムの鐘」の舞台にもなった、ノートルダム大聖堂は、パリの歴史と切り離しては語ることができません。
ノートルダム大聖堂とパリの歴史
シテ島は、古くから特別な聖地とされてきました。紀元前300年ごろ、ケルト人の一部族であるパリシイ族がこの島に定住し、水上交易の拠点として川沿いに守護神を祀る祭壇を築きました。
その後、紀元前52年ごろにガリアを征服したローマ人も、この地に船員組合の本部を設け、ジュピターやヴィーナスといった神々を祀るようになりました。6世紀初めになると、フランス最初の王朝であるメロヴィング朝がパリを首都とし、キリスト教を国教としたことから、この由緒ある聖地に初めてキリスト教の教会が建てられました。
シテ島には王宮と教会があり、これを中心にパリの都市化が進みました。12世紀半ばになると、パリが西ヨーロッパ文化の中心地としての地位を確立し、シテ島の教会もそれにふさわしい大聖堂にしようと建設が始まりました。大聖堂とは、司教の座る椅子(カテドラ)を持つ教会のことで、12世紀以降、ヨーロッパの主要都市には象徴的な存在として次々に大聖堂が建てられるようになりました。
建設には約200年という長い時間がかけられ、ついに完成した大聖堂の姿を見たパリ市民は、その壮大さに驚嘆したと伝えられています。
西側正面にそびえる2つの塔は空高く伸び、大きな窓を持つ壁面には精緻な彫刻が施されています。その構造は従来の石造りの教会と同じですが、驚くほど軽やかな印象を与える建築でした。
内部に入ると、ステンドグラスの窓から色とりどりの光が差し込み、キリストの生涯を描いた物語が鮮やかに広がります。中世の人々にとって、それはまさに「神の国」を体験するかのような場所だったのです。
ノートルダム大聖堂を救ったナポレオンとユゴー
フランスの国教の象徴だったノートルダム大聖堂にも、暗い時代が訪れました。それは、宗教よりも理性や思想が重んじられるようになった18世紀後半のことです。この時代、自由思想を信奉し、キリスト教に反発する市民たちが聖堂に押し入り、内部の彫刻を引き倒し、鐘を溶かし、ステンドグラスを次々と破壊しました。
フランス革命後も破壊や略奪は続き、司祭はギロチンで処刑されました。革命支持者たちは、略奪後の聖堂を「理性の殿堂」と呼び、飼料やワインの倉庫として使用するようになりました。
こうして、1795年にはノートルダム大聖堂は閉鎖され、次第に人々の記憶からも忘れ去られようとしていました。
しかし、19世紀になると、この荒れ果てた大聖堂に再び注目する人物が現れます。その一人が、フランス革命後に権力を握ったナポレオンです。ナポレオンは、大聖堂を国で最も権威ある礼拝の場として復活させることを決意し、1802年に正式なミサを再開しました。さらに1804年には、自らの戴冠式をこの大聖堂で行い、歴代の国王のようにその威厳を示しました。

この戴冠式が行われたことで、ノートルダム大聖堂は再び注目されるようになります。しかし、建物の損傷は依然として放置されたままでした。この戴冠式の様子は、画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの名作『皇帝ナポレオンの戴冠式』にも描かれています。
その後、ノートルダム大聖堂の修復が本格的に始まるきっかけを作ったのは、作家ヴィクトル・ユーゴでした。ナポレオンの戴冠式から約30年後、ユーゴは小説『ノートル・ダム・ド・パリ』で聖堂の荒廃ぶりを生々しく描き、パリ市民にとってこの大聖堂がいかに大切な存在であるかを訴えました。この作品は大きな反響を呼び、大聖堂の修復を求める動きが広まりました。
その結果、中世ゴシック様式の美しさを取り戻したノートルダム大聖堂は、1864年にセーヌ川のほとりで再び輝きを放つこととなったのです。
ノートルダム大聖堂の外観
大迫力の聖堂正面は圧巻の一言。
ノートルダム大聖堂の内部
高さ33メートルの聖堂内部は、中世ヨーロッパの「森」をイメージして作られています。
ステンドグラス

ステンドグラスを抜きにしてノートルダム大聖堂を語ることはできません。
ノートルダム大聖堂 ライトアップ

ライトアップされて光輝くノートルダム大聖堂も見逃せません!
ノートルダム大聖堂の火災
日本時間の2019年4月16日未明、ノートルダム大聖堂で大規模な火災が発生しました。
一般公開の再開へ
2024年12月8日から一般公開が再開されることになりました。
「ノートルダム大聖堂」のデータ
国名 | フランス |
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世界遺産名 | パリのセーヌ河岸 |
名称 | ノートルダム大聖堂 |