photo credit: Trip to Kyoto via photopin (license)

比叡山延暦寺



滋賀県大津市にある延暦寺(えんりゃくじ)は、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産に登録されました。延暦寺が建つ比叡山は、京都府と滋賀県の県境にあり、京都とは深い関係にあります。

比叡山は標高848mの山で、平安京の北に位置し、北嶺(ほくれい)と呼ばれました。平安時代初期に、最澄によって開かれた、日本天台宗の総本山です。空海によって開かれた高野山金剛峯寺と並んで、仏教の中心でした。

日本仏教の母山「延暦寺」の歴史

788年、最澄によって開かれた一条止観院(いちじょうしかんいん)が、延暦寺の元となっています。平安時代から鎌倉時代にかけて、数々の高僧を輩出しました(浄土宗:法然、浄土真宗:親鸞、臨済宗:栄西、曹洞宗:道元、日蓮宗:日蓮、時宗:一遍など)。そのため、「日本仏教の母山」と呼ばれます。

最澄自身が唐に留学した際、多くの宗派を学んだため、このように様々な宗派の宗祖が現れるもととなったといわれています。

822年には大乗戒壇が設置されました。戒壇とは仏教の戒律を授ける場所で、ここで儀式を行わないと正式な僧にはなれませんでした。当時、戒壇は日本に3ヶ所しかなく、天台宗が独自に戒壇を設けることには反発がありましが、最澄は各地で活動を続け、ついに戒壇設置の許可を得たのです。しかし、それは最長の死後7日目のことでした。

延暦寺はそれからも著名な僧を生み出しました。円仁や円珍は密教の発展に寄与し、良源は延暦寺中興の祖として、伽藍の再建などに尽力しました。

以後、延暦寺では僧兵の力が徐々に強くなり、権力者にも強引に自身の要求を通すようになります。奈良の興福寺と並び、「南都北嶺(なんとほくれい)」と呼ばれ恐れられました。

このため武家との対立は激化していき、決定的になったのは、戦国時代に朝倉義景・浅井長政連合軍を匿ったことでした。織田信長はこれに怒り、延暦寺を焼き討ちにしたのです。多くの堂塔が焼失し、僧兵や僧侶が命を落としました。

その後、豊臣秀吉や徳川家康、徳川家光により僧房が再建されました。

現代になると、1987年には比叡山サミットが開かれ、世界の宗教指導者が集いました。今でも毎年8月に、「世界宗教者平和の祈り」として開催されています。

延暦寺の境内

延暦寺は、比叡山内約500haの中にある堂塔の総称で、その境内は東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3つに分けられます。それらは「三塔」と呼ばれ、それぞれに本堂を持っています。

東塔

延暦寺発祥の地で、本堂である根本中堂(こんぽんちゅうどう)は、788年に最澄が開いた一乗止観院が元となっています。何度も災害に遭いますが、その度に復興してきました。現在の建物は、1642年(観永19年)に徳川家光の命で再建されたものです。薬師如来を祀っており、堂の前には1200年灯り続けている「不滅の法灯」が設置されています。

大講堂には、本尊の大日如来の両脇に、比叡山で修業した宗祖たちの像が祀られています。

西塔

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転法輪堂(釈迦堂) photo credit: Trip to Kyoto via photopin (license)

円澄によって開かれた西塔は、本堂は転法輪堂(釈迦堂)で、これは延暦寺の現存する建築物の中で最古のものです。

浄土院には最澄の廟があり、今も多くの僧が使えています。

常行堂と法華堂の2つは全く同じ形をしており、渡り廊下でつながっています。その渡り廊下が天秤棒のように見えるということで、「にない堂」とも呼ばれています。

横川

横川の発祥は、円仁が開いた首楞厳院(しゅりょうごんいん)です。遣唐使船をモデルとしたといわれる横川中堂が本堂で、おみくじ発祥の地ともいわれる元三大師堂もあります。元三大師とは良源のことで、彼がおみくじを考案したと伝えられています。

 

延暦寺では、日帰りや宿泊での修行体験プランがいろいろあります。日常に疲れたとき、自分を見つめ直したいとき、ぜひ体験してみてはいかがでしょうか。きっと貴重な経験になりますよ。

日本の世界遺産 古都京都の文化財

 

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