エーレンフェルツ城
(ライン渓谷中流上部)
エーレンフェルツ城はワインで有名な街のリューデスハイムに位置する、右岸の急斜面のぶどう畑の丘の上に建つお城です。
17世紀にフランス軍に破壊されてからは廃墟となりました。老朽化が進み現在は見学不可です。今も堂々とした姿をとどめる廃墟美と共に眺望の美しさで知られています。
エーレンフェルツ城の変遷
築城
12世紀には塔が建てられており、マインツ大司教ジークフリート2世の命を受けて、フィリップ・フォン・ボーランデンが1208年から1218年に死ぬまでの間に自費で城の中核部分を建設しました。
この土地はマインツ大司教管区にあったために時代の変遷の渦に巻き込まれていきます。その後、1220年に未亡人のベアトリクスが完成されましたが、1222年の判決文で城を大司教に譲渡するよう判決が下されました。
1211年に築城したこのお城は北方からの敵の侵入を防ぐため要塞として使われました。南側は絶壁で北側には深い堀が彫られています。二つの角櫓を持ち高さ20mの城壁が建てられています。
マインツ大司教時代
エーレンフェルツ城はネズミの塔とセットでマインツ大司教の徴税用の城となりました。(マインツ大司教は当時のドイツを支配下に置いた神聖ローマ帝国の中でも、かなり大きな力を持っていた司教領主です。)
1301年~1307年ごろにかけて、神聖ローマ帝国の意を受けたゴットフリート・フォン・ブラウンエックが城の守備を任されています。1355年には、トリーア大司教クーノ2世が占拠しました。
1356年には再びマインツ大司教ゲルラッハ・フォン・ナッサウが事実上の占領という形で取り返し、同年にマインツ大司教アンゼルム・ヴァムボルト・フォン・ウムシュタットの居城として拡張されました。1374年の戦争の時にマインツ大聖堂の宝物が一時保管場所として城に移されています。
三十年戦争時代
1631年には三十年戦争で深刻な損傷を受け、マインツ大司教は1636年に城を焼き払って退却しています。1689年のプファルツ継承戦争でフランス軍のルイ14世に占拠され、火を放たれて倒壊寸前となりました。現在は廃墟となり、ぶどう畑に転用するため外郭は削られています。
廃墟となった城
廃墟となった城は1806年にナッサウ公の所有となり、その後1866年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が領有することとなり、1856~1858年に4階建てで底面は6m、高さは23.86mの新ゴシック様式の城に修復されています。
現在はベッセン州が管理し、1986~1995年にかけて修復工事が行われ外観のみ見学可能です。
エーレンフェルツ城の見どころ
このお城の名前は「栄誉の岩」という意味を持ちますが、その歴史とは真逆の人生を送り廃墟となってしまいました。世界遺産の入口にあり有名な存在で、ドイツの山肌の城の一つとなっています。ライン渓谷にはマインツ大司教のお城は少ないので貴重な存在ともいえます。
右手には葡萄畑が広がり、左側にはライン川と中州にはネズミの塔、対岸はビンゲンの町とクロップ城を望む壮大なパノラマが広がります。また、ライン川から見るととても廃墟の様には見えません。
古城としての景観を保ちながら断崖の上に建ち、通り過ぎて振り返ると完全防備の要塞としての役割を持っていたことが分かります。
まとめ
ネズミの塔とセットで見学されることが多く、共に歴史の変遷を語っています。このお城は2つのタワーのシルエットが美しく見応えがあります。ドイツの歴史的背景と美しい景色を感じられるスポットです。
「エーレンフェルツ城」のデータ
国名 | ドイツ |
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世界遺産名 | ライン渓谷中流上部 |
名称 | エーレンフェルツ城 |