ライヒェンシュタイン城
ライン渓谷中流上部

ライヒェンシュタイン城は、ライン川の左岸にある11世紀に基礎が造られたお城です。盗賊の巣窟となった時代を経た悪名高い城。

この地域でも歴史が古いことでも知られるお城です。現在は美しいぶどう畑の上に立つ博物館となっています。

波乱万丈のライヒェンシュタイン城

アーヘンの近くにあるコルネリミュンスター修道院が11世紀に建てた、ライン川沿岸の城の中でも最も古い城のひとつです。

盗賊の拠点となったライヒェンシュタイン城

13世紀の城代ゲルハルト・フォン・ラインボートが盗賊騎士に堕落してしまい、1213年に罷免されました。フィリップ・フォン・ボーランデン(エーレンフェルツ城の築城者)が次に城代となり、1218年に城の名前を「フォン・ライヒェンシュタイン」とつけました。

彼には相続人がおらず、1241年にフィリップ・フォン・ホーエンフェルスが後を継ぎました。彼もまた盗賊騎士として暗躍するようになったため、1254年にライン都市同盟によって破壊されています。

領主の交替

1270年コーネミュンスター大修道院にかわり、マインツ大司教がこの地区の領主となりました。翌年大司教とフィリップ・フォン・ホーエンフェルスとの間で帝国平和令が締結され、フィリップの悪行振りも収まりました。

1277年に彼の息子ディートリヒ・フォン・ホーエンフェルスが城を相続しましたが、父親を上回る盗賊騎士になってしまいます。

盗賊の排除と城の陥落

ライン河畔地域における盗賊騎士の一掃を決意した神聖ローマ皇帝ルドルフ1世により、城は1282年についに落城しました。

この時ディートリヒの共犯者たちは絞首刑となり、ラインヒェンシュタイン城の守護城として11世紀に建てられたゾーネック城と共に焼き払われました。

しかし、城の持ち主で盗賊騎士のディートリヒは処刑を免れた上に、城代権をプファルツ伯ルートヴィヒ2世に売却する権利も有していました。

ライヒェンシュタイン城の再建

1290年皇帝が城の再建禁止令を出していましたが、プファルツ伯ルートヴィヒ2世の息子たちは1300年頃からゾーネック城と共に城の再建へと着手しました。

これに対してマインツ大司教はラインシュタイン城を築いて対抗しました。城代権を持っていたプファルツ伯と領主のマインツ大司教との間で争いが起こりました。

しかし、この時代の皇帝ルートヴィヒ4世の仲介により、1344年にマインツ大司教にライヒェンシュタイン城とゾーネック城の所有権を与え、この争いに終止符が打たれました。

ライヒェンシュタイン城の完成とその後

マインツ大司教により、エーレンフェルツ城と同じくゴシック様式で下部8m、上部5m、高さ16mの厚い城壁で囲まれた堅固な城に再建されました。

その後、城の所有者が何度もかわり、16世紀初頭には倒壊寸前となり廃墟となってしまいました。

廃墟となっていたことが幸いし、1688~1697年に起こったプファルツ継承戦争では、破壊されることはなかったようです。(フランス軍に爆破されたとの説はあるようです。)

ライヒェンシュタイン城の復活

1834年に、プロイセンの陸軍、フランツ・ヴィルヘルム、フォン・バルフース将官が買い取り、ファルケンブルクと一時改名されました。門の丸屋根構造部は、彼の住居に改築されています。

1877年からフォン・レーフス男爵、1889年からコジドフスキー執政官、1898年からはニコラウス・キルシュ・プリチェリとその妻オルガの所有となりました。プリチェリ夫妻は建築家のシュトレーベルに依頼し、1899から1902年にかけて、中世時代の城に再建・拡充しました。

1986年にホテル会社「ブルク・ライヒェンシュタイン」に売却され、現在は博物館です。城の上からはライン川の眺めがとても綺麗です。また、ガーデンカフェやレストランもあり、オープンテラスでは、地ビールも飲むことができるのでライン川の雰囲気を存分に楽しむことができます。

まとめ

ライン下りでラインシュタイン城の次に見えるのがこの城です。両城は近くにあり名前も似ているのに、正反対の人生を過ごした城です。

盗賊騎士退治の基地として使われた、「ラインシュタイン城」と盗賊騎士の巣窟とされた「ライヒェンシュタイン城」は共に複雑な時を過ごしたお城です。

また、ライン川でも美しいお城に数えられる「ラインシュタイン城」に比べ、南北に間延びした神秘的な印象の城は外観にやや赤みがあり歴史の古さを感じさせます。

「ライヒェンシュタイン城」のデータ

国名 ドイツ
世界遺産名ライン渓谷中流上部
名称ライヒェンシュタイン城

 

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