カラカラ浴場
(ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂)
イタリアの世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂」に含まれているカラカラ浴場は、ローマ帝国第22代皇帝カラカラ帝がローマ市街の南端付近に造営したローマ浴場です。
ローマ市民の憩いの場「カラカラ浴場」
午後1時、館内に湯が沸いたという合図の鐘が鳴り響く。市民の憩いの時の始まりです。性別や皮膚の色、貧富にかかわりなく、格安の料金で誰でも入場できたため、カラカラ浴場は連日多くのローマ市民で賑わいました。
建物内部は豪華で、大理石やモザイクの床が目立ち、絵画や彫刻が壁や天井を埋め尽くしていました。冷浴室、熱浴室など各種の浴室のほか、体育室や図書室などの施設も揃って、一度に1600人を収容するほどの規模でした。
カラカラ浴場の入り方
館内では、「循環入浴」と呼ばれる一定の順路で回ります。まず、体育室でレスリングなどをして汗を流す。脱衣室で服を脱ぎ、ぬるめの温浴室へ。
次に熱くてサウナ効果のある熱浴室でたっぶり汗をかく。石験が高価だったため、熱浴室や温浴室では、拓すり棒で体をこすって汚れを落としていました。
裕福な人々は、それを奴隷に任せました。そして、冷浴室に飛び込み、ほてりを取って、最後に屋根なしのプー ルで泳ぐ。富裕層の人々はさらに仕上げにマッサージ室に行き、マッサージ師や奴隷に、香油を含ませた布で体をマッサージさせたといいます。入浴後は図書室で読書をしたり、自由に庭園散策を楽しんだそうです。
公共浴場(テルメ)は、心身をリフレッ シュするだけでなく、社交場としても人気がありました。皇帝や元老院議員も姿を見せ、市民と同じ浴室で過ごしたのです。
ハドリアヌス帝のエピソード
ローマ帝国の平和に貢献した五賢帝の一人、ハドリアヌス帝も、しばしば公共浴場を訪れました。ある日皇帝は、洗い場で見覚えのある老兵士がしきりに体を壁にこすりつけているのを見て、声をかけます。
すると、奴隷を雇う金がないので壁で垢を落としているということでした。皇帝は気の毒に思い、金と奴隷を与えました。
すると、次に訪れたとき、今度は浴場中の老人が、いっせいに壁で体をこすり始めたといいます。
巨大な男女混浴の公共浴場「カラカラ浴場」
216年に完成したカラカラ浴場は、 その大きさ337m×333m、総面積約11万m²にもおよぶ巨大な浴場でした。そして、意外なことに、男女混浴だったのです。
館内は左右対称に造られ、各種の施設は2つずつありましたが、性別によって分けられることなく、人々は自由に行き来ができました。
腰巻き程度の簡単な布をあてがうだけで、男性は鍛えられた美しい肉体を誇るかのように浴場内を往来し、女性は生まれたままの姿で会話を楽しみながらくつろぐこともありました。
また、場内の入り口付近では、食物や酒、香水や化粧品などを売る露天商が店を開き、館内では、裸の人々の間を物売りが行き来しました。
入浴に必要なものは、 ここですべて手に入ったのです。芸人や手品師、美容師もおり、ゲームや賭博も盛んに行われました。常駐のさいころ賭博師までいたといわれています。
罪悪の温床となったカラカラ浴場
時代が下がるにつれ、退廃的な傾向が強まり、公然と売春が行われるようになってしまいました。柱の陰にはいつでも売春幹旋人が控えるようになったのです。
こうして、古代ローマの浴場は次第にキリスト教徒たちから売春、飲酒、賭け事などの「罪悪の温床」と非難されるようになっていきます。 カラカラ浴場は5世紀まで賑わいましたが、6世紀に異民族の侵入によって水道が破壊されると、ついに閉鎖されてしまいました。
「カラカラ浴場」のデータ
国名 | イタリア |
---|---|
世界遺産名 | ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 |
名称 | カラカラ浴場 |